2014-08-24

467 Maleficent

ディズニーの映画を立て続けに見ています。新作"Maleficent"は、伝統的なディズニー世界観を大きく変えた"Frozen"との類似が指摘されるところですが、ファンタジーというものはあまり解釈を加えずに素直に芸術として楽しめばよいものですし、この映画は主役の演技力と存在感の高さのみを取ってもその域に十分達しています。魔法や妖精やドラゴンの完成度は言うまでもないとして(我々はハリウッド映画のCGや映像表現のクオリティをすでに知りすぎており、どんなに質が高くても殊さら驚くには当たらないというのが率直なところです)、特筆すべきはこの魔女に孤高さと温かみとユーモアを同居させ、突飛で邪悪な角も含めて美しい存在感で観客を魅了し、唸らせる演技力と表現の深さです。ひたすら彼女の顔のクローズアップ映像が続くのも、言葉少ない中で感情をすべて目の表情で物語らせることができるからでしょう。

さて、ディズニーは古典的なプリンスとプリンセスのフェアリーテイルをしまいこんだようですが、かつてのディズニー映画とて、必ずしもプリンセスの夢を叶える出会いがテーマだったとは思えません。というより、プリンスは「善き者、勇気、賢さ」の象徴であり、ヴィランは「悪しき者、狡猾さ、愚かさ」の象徴であり、彼らの戦いは常に善が勝利し、プリンセスは救われる者としてでなくいわばその決着に「正義」を与える象徴であったと捉えられます。伝統的なディズニー映画は情緒的というよりきわめて律儀に倫理的だったというべきでしょう。それがそう感じられないのは美しいアニメーションと音楽の賜物とも思えます。

"Maleficent"や"Frozen"が斬新あるいは現代的だとされるのは、プリンスの役割をなおざりにしたというよりは、かつてのような善悪の明快な境界線を引かずに、より複雑な物語に変化したからであり、Maleficentにおいては特に主役の魔女にとどまらず様々な「悪」が存在することが語られ、その中である大きな「悪」を成した魔女が、慈愛と贖罪を通じて自ら「善」を取り戻すという展開であり、観客はそこに新たなお伽話の骨格を見出すわけです。

とはいえこの映画は予想されるほど暗いトーンではなく、むしろ全編にユーモアが溢れた楽しい作品です。自ら死の魔法をかけた幼いプリンセスが能天気な妖精たちの元で危なっかしく育つのを見て見ぬ振りができず、いつのまにかその庇護と育児と教育を一身に担ってしまう姿はどう見てもコメディです。一方造形表現も大変印象的で、力強い翼で空を翔るMaleficentはさながら"Nike of Samothrace"の美しさに通じ、翼を奪われ、怒りで転落しながらも最後は英雄として蘇る姿は、現存するNikeが顔と腕を失いながらも神々しい彫像であることとも不思議に似通っているのです。

No comments:

Post a Comment